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2013年2月3日日曜日

『カラマーゾフの兄弟』(下):ドストエフスキー

正直同じ作品で三つも続けてレビューを書いていると、飽きてくる。もう次の作品に移りたいという浮気心がムズムズしてくるのだが、そこは私、案外律儀と言うか真面目な人間で、三つ書くと言ったものは三つ書かなければ気が済まない性分である。なので今回も頑張って書く。

さて、この作品に付いて最後に考えたいのは、この作品は当初どのような筋書きを予定されていたかという事である。というのも、作者の言葉で最初に書いてある通り、この作品は当初二つ物語から構成される予定だったのであり、結局そのうちの一つを書き終えた所でドストエフスキーが亡くなってしまった為に、もう一つが書かれずに終わったのである。この作品はそういう意味で未完の作品なのである。一般的に未完の作品扱いをされないのは、この物語が素晴らしい所で終わっており、読後感がよく、小林秀雄氏が言うように「およそ続編というものが考えられないくらい完璧な作品」であるからである。もう続きなんか書かなくても、これで終わりでいいんじゃないの?というわけだ。

私もこの作品を未完の作品とは考えていない。むしろ続編など書かれなくて良かったくらいに思っている。物語の最初を良く読んでみると、ドストエフスキーがこの後に書こうとしていた事が朧げながら見えてくる。

アレクセイ・フョードロウィチ・カラマーゾフは、今からちょうど十三年前、悲劇的な謎の死を遂げて当時たいそう有名になった。

私は結構長い間これをフョードルのことと読み違えていて、フョードルがああした形で惨殺されたのはまあ確かに「悲劇的な謎の死」ということになるだろうと思って納得していたのだが、よく読んでみるとこれはフョードルではなく「アレクセイ」つまりアリョーシャの事なのである。恐らく、アリョーシャは書かれずじまいに終わった続編の中で、悲劇的な謎の死を遂げる事になっていたのであろう。一節によるとこの作品は当初『大罪人の生涯』という題名で書かれ、アリョーシャが断頭台に登る予定になっていたとか、そういう話も聞くが、真偽は定かではない。が、アリョーシャに悲劇的な死が訪れた事は間違いないわけだから、たぶん当たらずとも遠からずといった所だろう。

しかしそれが結局書かれずに終わったというのは何という救いだろう。神の存在を信じ、あの世での再会を信じていたアリョーシャがその後その信仰と善行にも関わらず悲劇的な死を遂げなければならなかったとしたら、この小説はとんでもないニヒリズム小説に堕していたに違いないのだ。そんなところは正直見たくもない、というのが大方の読者の見解として一致する所だろう。この小説の価値は、ドストエフスキーの化身であるアリョーシャが父を殺され、兄を誤審で奪われ、もう片方の兄も病んでしまうという不条理な環境に身を置きながら、それでも神を信じようとしたその一途さにあるのだ。だからこそこのエピローグに涙せずにはおれないわけだが、この涙すら報われることもなく再びどうしようもない不条理の波に飲まれていくのだとすれば、もう本当に救いようがない。そんな所は書かれなくて良かったのだ。

そういう意味でこの小説は、ドストエフスキーが自らの死をもって神の存在を証明した救済の書であるということができる。この小説は神によってここで書く事を止められ、そしてそこで死んでしまったドストエフスキーは最後には自ら信じたいと願っていた神によって救われたのである。『カラマーゾフの兄弟』を巡るドラマの真の主人公は、ドストエフスキー自身だったと言えよう。


2013年2月2日土曜日

『カラマーゾフの兄弟』(中):ドストエフスキー

前回は(上)と書いておきながら、上巻の話には全く触れずに終わってしまった。概略というか全体的にこの作品の何が良いのか、という事に終始しているのだが、じゃあ今回はというとやっぱり全体的な話になってくるのではないかと思う。何頁何行目で誰がどうしたというような細かい話は、私がここに書くよりも、本書を読んでもらった方が早いと思うからだ。

最も興味があるのは、ドストエフスキーがどうやってこのような緻密な物語を書いたのかということだ。普通のプロットの作り方じゃあなかなかあの緻密さと思想の深さは出せないだろう。勿論ドストエフスキーが所謂天才というやつだったら、思いつくままに書くだけであれができあがるのかも知れないが、それにしたって普段の、意図しない段階での準備がかなり必要だったはずだ。

恐らく、ドストエフスキーのライフワークとして、無神論の研究というのがあったのだと思う。この作品に限らず、彼の作品には必ず無神論者が登場し、神はいるのか?という問題に対して問いかけ続けているからだ。また噂では、彼は図書館中の無神論に関する本を読破してから『カラマーゾフの兄弟』を書いたとか。この作品のスゴさは何も無神論思想の深さだけではないのだが、こうした一つの要素にこれだけの労力を惜しみなく供するところが、やはりプロ意識の強い作家だという事を思わせる。

しかし誤解しないでもらいたいのが、ドストエフスキー自身が無神論者であったわけではないということだ。彼は無神論という思想をこれでもかと研究し、考え続けたが、どうしても神の存在を諦められない。丁度作中のアリョーシャの様に、「ああ、この世に神様なんていないんだ」と思わせられるような出来事にいくつも直面しながら、それでも神様はいるんだ、ということを信じたかった人なのだと思う。だからこそ本作のエンディングは、あれだけ踏んだり蹴ったりの状況に見舞われたアリョーシャは、それでも子供達と明日を信じるという素晴らしいものになったのだろう。

無神論というのは、その時代のロシアに流行していた考え方で、同じドストエフスキーの『悪霊』でも同じテーマで書かれている。そこでは無神論を思想する秘密結社が暗躍する。古くはニーチェが『ツァラトゥストラ』で語った、神は死んだ、という実存主義というものからきている。だからニーチェを読んでからドストエフスキーを読むと、まるで解説書を読んだようによく分かるのである。ドストエフスキーはそれほど無神論というものをよく研究していたのだろう。あのニーチェの難解な哲学を読み解いて、それを自分なりに噛み砕いて、自分の言葉に置き換えて物語を構築したということになる。その才能にはもはやあっぱれである。名作を書くには研究とそれを続ける情熱が必要なのかも知れない。

それでもなぜドストエフスキーは無神論に迎合する事が出来なかったのか?それは恐らく自身が芸術家だからだと、私は考えている。神がいないということは、物事の意味なんてものはなく、偶然に、ただ「それがあるところものとして」存在しているに過ぎないという事になる。すると芸術の価値などというものはいの一番に否定されてしまうのだ。何の感情も何の妙味もない、彼の表現を借りれば、「人間は五寸釘のように無機質な存在になってしまう」のだ。ドストエフスキーはそれを危惧した。芸術家として、この世の一片として何の意味も持たずに白日の下に晒されて、そこに何物も隠れてはいない、どんな意味も含まれてはいない。そういう世界観が芸術家としては許し難いものだったに違いない。

だから、ドストエフスキーが無神論をこれほど丹念に研究したのは多分、それに共感するからではなくむしろ共感できなかったからだ。自分の嫌いな物ほど興味が湧くというのは何だか分かる話である。そして芸術の敵と見ていた無神論を研究し、それを元に最高峰の芸術を仕上げたのだから、「敵を知る事は汝を知る事だ」というのは正にこれである。『カラマーゾフの兄弟』こそ無神論の氾濫する逆境にあって書かれた作品であり、作家の不撓不屈の精神を代弁するものかも知れない。


2013年2月1日金曜日

『カラマーゾフの兄弟』(上):ドストエフスキー

いよいよ『カラマーゾフの兄弟』である。別にテレビドラマ化されるから記念に書くわけではない。私は前々からこの作品が好きだったのだ。これはよく言われているように、あらゆる角度からして完璧な作品なので、よほど気合いを入れて書かなければならない。なお私が読んだのは新潮社の原卓也訳のみなので、光文社とかその他から出ているものに関しては全く知らない。なので私の書評もそれにあわせて上中下の三回に分けて書こうかと思う。

さて、そこまで書いておいてなんだが、こういう芸術の世界において「完璧」とか「頂点」とか言われるものにはよくよく注意しなければならない。冷静に考えれば、そんなことはあり得ないからである。そこにはどうにかしてその作品を持ち上げたい、その事で少しでもその作品のカリスマ性にあやかりたいというような不純極まるバイアスが絶えず働いている。確かに小説の質において普遍的な価値基準や客観的レベルというのはある程度存在はするが、それも一つの指標であって、絶対ではない。もし誰が見てもこの小説が完璧なのだったら、これ以降に書かれた小説は無用であり、この小説一つあれば他は読む必要がないということになる。そんな馬鹿な話はない。

しかし、それでもこの小説を完璧だと評したくなる気持ちはとてもよくわかるのだ。以下にその理由を思いつく限り列挙してみたい。

・サスペンス、恋愛、宗教、家族兄弟愛といった様々なテーマを含んだ複雑なストーリーが上手く絡み合い、よくまとまっている。その上最後の終わり方が感動的であり、読後感がよい。伏線がきちんと回収されていなかったり、無意味な描写が多かったり、あるいは必然性のないバッドエンドだったりすると読後感が悪いが、そうしたことがこれだけの複雑さ、長さの作品において全くないというのはやはりすごい。

・宗教哲学的な、「神はいるのか?」という問題について、様々な人物の口を借りて深いところまで論じられる。中でも「大審問官」は有名であり、これ一つで一つの作品にしても良いくらい衝撃的な内容である。無神論者のイワンがこの章一つ分くらいずっとしゃべりまくっているのだが、その演説口調が熱く、しかも神の存在を前提に無神論を説くといったような斬新な発想が飛び出すので、始終鳥肌がおさまらない状態だ。

・登場人物のキャラクターが皆はっきりしており、魅力的だ。乱暴者のドミートリー、知的なイワン、敬虔なキリスト教徒のアリョーシャは勿論、父親のフョードルも道化役者のようだし、皮肉屋のスメルジャコフとか、女もカテリーナやグルーシェニカなどあくの強いキャラが多い。人物が覚えやすいというのは実はかなり大きなポイントだ。

・ドストエフスキー特有のユーモア溢れる筆致で複雑な人間関係を細部に至るまで説明しきっている。ドストエフスキーのスゴさの一つは、説明文が延々と続くのに何故か退屈しない、むしろ面白い所である。これは本作以外でも見られる特徴である。これだけ長いのに退屈せずに一気に読めるというのはスゴい。

・挿入が素晴らしい。「大審問官」もその一つだが、ゾシマ長老が死ぬ前に弟子達に言い聞かせたことをアリョーシャが書き留めたものや、ドミートリーを裁く検察官と弁護士のやりとり等が印象的だ。挿入とは要するに、三人称が基調の物語の中に一人称の物語を挟む事で、読者を物語の中に引き込む為の絶妙なアクセントになっているという事だ。

・これだけ緻密なフィクションを書いておきながら、この作品はそれでも純文学と言う扱いをされる。それは人の感情の細かさや機微において、他の追随を許さない程の表現力で描ききっているという事が評価されているからこそのものだろう。そのため大衆小説にしばしば見られるようなお粗末な表現で人間関係普遍化の波に飲まれる事がない。

要するにマクロだけではなく、ミクロから見ても、この作品は完璧なのだ。これはバイブルだ。単に小説というくくりに縛られているのは実に勿体ない。純文学とか、大衆文学とか、そうしたカテゴリーを超えた人生の謎である。

何だかよく分からなくなってきた。本当はこの後にも色々と名作たる所以を書きたかったのだか、今から細かい話を書き綴っていくと長くなるので、具体的な話は次回に譲ろう。


2013年1月30日水曜日

中島義道

今日は少し趣向を変えてみよう。今日は存命の哲学者、作家、エッセイストの中島義道についてだ。彼は多分、本を読む人のうちではちょっとした有名人だろう。私は彼の『差別感情の哲学』という本を読んで、すっかり彼の文章に共感し、それから何冊も彼の本を買っては貪り読み続けたものである。



一般的なイメージとしては、かなり虚無的な、ぐれた、反社会的なことを書く人だというのが浸透していると思う。『人生に生きる価値はない』とか『どうせ死んでしまうのになぜ今死んではいけないのか』というようなタイトルが目につく以上、ある程度仕方のない事かも知れない。『ぐれる!』とか、かなりストレートなものもある。

けれども、私はそうとは思わないのである。割と虚心坦懐に、ありのままを観察しようとしている人だと私は思っている。そうすると世間一般の常識に沿わない場合が多々あるため、反社会的だとか思われざるを得ない。だがやはり哲学者というものはそういうものと昔から相場が決まっていて、常識を疑う、そして理屈で証明されたことは如何に非常識なことであっても厭わずに口にするというのはもう哲学者の仕事のようなものだから、そういう「哲学的」営みを彼も踏襲しているに過ぎないのであろうと思う。だから彼が「希望を持って行きよう」と書いた時には、それはかなりの重みを持っていた。私は涙しそうになった。

何でも、少年時代、青年時代を通じて不幸な人だったらしいのだ。勉強しか好きな事のない人だったらしい。東大文科一類に現役合格する程の学力の持ち主でありながら、内気で繊細で、思った事が口に出来なく、親にも教師にも周りの空気にも抗う事が出来ず、そのくせ偏食だとか、学校のトイレにいけないとか、体育が苦手だとか、そういうコンプレックスを始終感じ続け、そういう自分を変えたいと思ったのか何でも良いから反抗したいと思ったのか、大学では法学部に進まずに哲学の道を選び、そうすると就職する事も出来ず、家に引きこもり、「いつか死んでしまう」と布団の中で考え続け、やっと予備校講師の職にありついたと思ったら全然人気が出ず、30歳を超えてからドイツに哲学をする為の私費留学をして・・・。というようなもう波瀾万丈どころかどうしてそんなにしなくてもいい苦労を自ら選んでし続けるのだろうという人だ。

やはりこうした波瀾万丈な人生を選んだ人は、自分語りが好きだ。自分はこんなに辛くてこんなに可哀想で、という話が実に多い。それには私も若干食傷気味である。だがそこから導き出された自由な発想と、奔放な反逆精神は何とも痛快である。読み物としては半端じゃなく面白い。真面目すぎて頭の固い人は是非一度読んでみる事をお勧めする。人生観が変わること請け合いである。

しかし影響されすぎると、それはそれで良くない。良くないというより辛い。何が良くて何が悪いのか、何が正しくて何が間違いなのか、考えても考えても分からなくなってくる。哲学、というのは多分そういうもので、私が哲学にハマるきっかけになったのも実はこの人だったのだが、哲学をしたての頃はそれはそれは辛かった。もう何もかもが間違いのような気がして、何一つ寄る辺のない人生を送っていた。あくまでこれは一つの考えで、あくまで自分は自分というスタンスを貫いてもらいたい。

代表的な書籍のリンクを貼っておく。お好みでチョイスしてほしい。





哲学的主著はこれだろう。


2013年1月29日火曜日

『ねじまき鳥クロニクル』:村上春樹

お知らせ:『芸術的生活を目指すブログ』から『文学的生活を目指すブログ』に改題しました。何か文学のことしか書かなそうな気がするので。


流行作家、という言葉は、昨今村上春樹の為にある言葉のようである。村上春樹という作家はそのくらいに現代作家にとって神格化された作家である。新人の作家がちょっとネガティブなことを書こうものなら即座に「村上春樹亜流」などと揶揄される。尤もこれにはたぶん別の事情もあって、村上春樹は芥川賞を逃してからというもの日本の文壇と仲が悪く、海外で活躍する彼を日本の文壇が嫉視するきらいもなきにしもあらずである。しかしそうした現象も村上春樹の存在の大きさを示すものと見ることができるであろう。

勿論、そういう作家は世間一般においても風当たりは強い。好きな人がいる分嫌いな人も多いだろうと思う。私自身はと言うと、実はあんまり好きではないのである。いや、よく理解できていないだけなのだと思う。上手いのはわかる。間違いなく上手い。飾り気のない文体も、人物描写も、何気ない一言も、ストーリーも設定も感心するほど上手いのである。クリエイティブな才能があるんだろうなあと思う。だがそれでも面白いとは思わない。何かが違うのである。核心を突いていないというべきか、命をかけるほどの必死さがないというべきか、とにかく上手いなあと思うほどには好きになれない。

誰に似ているかと言えば、第一に、森鴎外に似ている。というと大抵驚かれる。だが精神性とか、創作に対する態度が似ているのだ。鴎外には、文学を人生のそのものとして捉える、愚かしいまでの必死さがない。精神的に追い込まれてもいない。ただ頭のいい人が教養の一つとして、仕事の一つとして創作に携わっているのだ。創作だけではなく翻訳も、評論もそうである。何でもできる器用な人なので、何にも悩まない。というか悩むくらいなら最初からやっていないだろう。そこには余裕が感じられる。そしてどこか冷めている。

村上春樹は勿論、軍医ではない。作家になる前はジャズバーを経営していたそうだが、とっくに専業作家である。決して片手間に文学をやっているわけではない。バックグラウンドは鴎外とは似ても似つかない。しかし創作に対して持っている冷めた態度は妙に似ている。器用で、何でも書ける。歴史、サスペンス、SF、恋愛、評論、ルポルタージュ、エッセイなどなど、何でもいける。そして勿論、翻訳もプロだ。お分かりだろうか?そこに一切自分というものが介在していないのだ。創作はあくまで創作であり、決して人生哲学的や苦悩の結晶ではないのである。純文学とか言うと、恐ろしく苦しみ抜いた自分の思想語りが好きな人が多い。そういう作家が好きな人は、恐らく村上春樹を好きになれないだろう。私もそうである。しかし、自分の思想とか哲学とかよりは、創作を純粋に創作として楽しんでいた方が長続きしそうだなと思った。

そうそう、これはあまり深入りしないけれども作家以外だとポール・マッカートニーに似ている。ポールは何となく器用すぎて好きになれない、特にソロ作品が、というビートルズマニアは結構多いような気がする。そう、ジョン・レノン的な人生そのものの投影がないのである。村上春樹はそういう意味でポール的である。

というわけで『ねじまき鳥クロニクル』について何も書かないまま結構な文字数になってしまったが、これは村上春樹の器用さ、クリエイティブさが遺憾なく発揮された作品と言って良いように思う。物語の間に割り込んでくる挿入が素晴らしい。恐らく、ドストエフスキーに影響を受けたのだろう。


2013年1月27日日曜日

『山の音』:川端康成

川端康成は、日本人初のノーベル文学賞作家という以外に特に目立った特徴のない作家のように思える。勿論、『雪国』や『伊豆の踊り子』などは有名だし、国語の教科書にも載っているくらい国民的な作家である事に間違いは無く、また文壇での地位もよほど高かっただろう。しかしそれでも川端康成の文体、と言われて「ああ、ああいう感じね」と咄嗟に思い浮かべる事は難しい作家だと思う。例えば、志賀直哉(簡素平明)とか、三島由紀夫(豪華絢爛)とか、安部公房(理屈っぽい)とか、太宰治(自虐的)とか、その他個性の強い作家はもう名前を聞くだけで大体どんな作風なのかというのが想像できる。大江健三郎のような代表作の名前すらぱっと出てこないような作家でも、文体は陰気くさく、特徴的ではある。が、川端康成はまあ日本的な、美しい文章を書く人だという事だけは分かるけれども、飛び抜けて特徴的な毒々しさといったようなものは、印象にあまりない。少なくとも私にとっては、川端康成はそんな作家だった。

ところがこれが大きな間違いで、川端康成ほど毒々しい、狂気に満ちた作家はなかなかいないのである。いや、そうは言ってもぱっと見た感じそういう気はしない。やはり文体はどことなく大人しくて、少し読んだ程度だと「きっと真面目な事が書いてあるんだろうな」という印象を抱きやすい。しかしきちんとその内容まで踏み込み、かつ一定の量を読んでみると、実はドロドロとした人間同士の愛憎がかなり緻密に描かれているのである。これはなにも『眠れる美女』や『みずうみ』など異常な性癖を持つ主人公を描いた作品の事ばかりを言っているのではない。一見普通の人たちを描いた作品でも実は昼ドラ的な毒々しさ、異常さが含まれているのである。

『山の音』はそんな小説の代表格である。信吾という還暦を過ぎた(当時としては)老人が主人公であるが、この爺さんが一見まともなふりして、実はかなりくせ者なのである。いや、この爺さんだけではなくこの爺さんの一家が皆くせ者ぞろいで、なかなか一筋縄にはいかないのである。信吾の妻、保子は亡き姉に似ずに醜かった。信吾はその昔、保子の姉に憧れながらも、その妹と結婚した。そして信吾は内心、生まれてくる娘が保子を伝って保子の姉のように美しく生まれてはくれないかと密かに期待していたのだが、生まれてきた娘(房子)は母親より更に醜かった。その房子がヤクザ者(哀川)の家に嫁いだが、不仲になり、娘と赤ん坊を連れて出戻ってくる。その醜い出戻りの娘を信吾や保子は持て余しながらも、自分の娘なのだから身から出た錆と内心諦め、それでも頭を悩ませているのである。そして極めつけは赤ん坊に乳をやる房子を信吾が見たときの描写がこれだ。

顔はみっともないが、乳は見事だった。

アホである。大きい方の房子の娘も何だか不気味な性格で、蝉の羽を毟って、芋虫のようになったそれをみて楽しんでいるというのである。しかも自分のそんな猟奇的な姿に周りの大人が誰も関心を向けていないと悟るや否や、それをポイッと捨ててしまったりする。保子はそういう不気味な孫娘を嫌っている。

房子の弟(信吾の息子)の修一というのがいるのだが、これがまた手の付けられない程のプレイボーイで、菊子という妻がいながら外で他の女と遊び歩いているのである。信吾は菊子を不憫に思いながらも、その可憐さに淡い恋心を抱く(息子の嫁に!)。修一の素行の悪さを何度と無く咎める信吾ではあったが、菊子が身ごもった子供を流産してしまい・・・。

他にも色々あるのだが、きりがないのでこの辺にしておこう。とにかくこれだけでもかなり屈折した家族である事が伺い知れるだろう。川端康成とはとにかく、それくらい屈折した作家なのである。

そもそもこの作家は幼少時代に数多くの近親者の死に見舞われており、非常に数奇な運命をたどってきた人なのである。そういう幼い頃に味わった天涯孤独の運命の無情さが、身に沁み付いているのかも知れない。そう思うと72歳にもなってガス管くわえて自殺するのも(これには諸説あるが)、何となく彼らしい最期のような気がしてくる。



『掌の小説』は個人的におすすめである。掌篇小説というやつで、3ページくらいの短い小説を集めたものなので、隙間時間にさっと読む事が出来ていい。それでいて結構質も高い。

2013年1月25日金曜日

『1984』:ジョージ・オーウェル

そう言えばこちらのブログで紹介するのを忘れていたが、右の「管理人のブログ」のところにそれぞれ「夏目漱石研究」「芥川龍之介研究」「太宰治研究」「三島由紀夫研究」というブログへのリンクが貼ってある。研究とは言ったものの、そんなに大それたものではなく、そもそも私は文学部を出ているわけでも専門的な研究をしている訳でもないのでそんな学術的なものが書けるはずもなく、ただ読者の方々の読書のきっかけになってくれればいいなという気持ちで綴っている。こちらは毎日更新というわけにもいかないが、なるべく二三日おきには更新するようにするので、こちらも是非ご覧頂きたい。

さて、本題に入ろう。『1984』は世界的名著であろうが、私にとっても本作はかなり衝撃的な作品で、何度も読み返した上に原著まで読むに至ったくらいに好きな作品なので、書かせて頂こう。

あらすじを書こうと思ったが、面倒なのでウィキペディアなどでご覧頂きたい。が、たぶんネタバレしているので、きちんと作品を楽しみたい方は本を読んだほうがいいだろう。いや、絶対に読んだ方が良い。これはもう読むしかない。恐ろし過ぎて鳥肌が立つくらいの作品だ。

この作品は通常SFにカテゴライズされるらしく、確かにテレスクリーンや、自動小説執筆機、あるいは記憶穴など、未来の世界を描いている以上、科学技術的にはSF的な要素もあるに違いない。だが別にそうした技術的な発想がそれほど飛び抜けて卓抜している訳ではない。というか1984年どころか2013年にもなる昨今、ここに書かれているくらいのことは技術的には殆ど可能になっているだろう。

この小説はSFではなく、哲学小説として読むべきだ。なぜなら、「全てを疑って考える」という哲学の原則の重要性をこれほどにまで身にしみて実感させる小説はないからだ。私たちは基本的にだまされているのである。権力者に都合の良いように教育、統制され、しかもそれを当然の正義と見なすべく促されているのである。例えばある一定の言語を使ってものを考えると言うことは、それ自体で一つの思想統制を受けていると言っていい。論理とは言語を前提としており、言語によって「当然の理屈」だって恣意的に変えられてしまうからだ。例えば数学という最も厳密な論理性をを要求する学問でも、ある一定の言語の中でのみ論理的であるのであり、他の言語の下では「2+2=5」になるかも知れないのだから(これは本作の中で実際に出てくる数式である)。つまり「当たり前のこと」なんて何もないのである。主人公のウィンストンは党に対して反抗的な意志を持っていたが、拷問を受けつつ真実を諭されるにつれ、「実のところ間違っているのは私の方ではないか?」と思わされるにいたり、ついには専制君主たるビッグブラザーを心から愛するようになる。それは何者かによって強要されたのではなく、彼自身が心の底からそう思っているのである。より正確に言えば、心からそう思うように仕向けられたのだが。読んでいるこちらさえ「ビッグブラザーや党が悪役である」という観念が揺らいでくるのだ。「確かに個人の自由など何の役にも立たないのかも・・・」なんて思うに至るのだから、本当に恐ろしい。何が正しくて何が間違っているのか、本作を読み終える頃にはさっぱりわからなくなっているのである。

反共産主義、反集産主義だとか、あまり政治的なことは考えなくて良いように思う。なぜならこういう生まれながらにして思想、行動、言論を統制下に置かれ、それを全く疑問視できない、疑問に思う能力すら与えられない社会というのは現代の日本においてもあり得る話であるからだ。勉強ができた方が良い、スポーツが得意な方が良い、先生からほめられた方が良い、友達が多い方が良い、異性にもてた方が良い、仕事ができた方が良い、素直な性格の方が良い、お金を持っている方が良い・・・。ありとあらゆる思想統制、価値観の画一化がこの国においても行われているではないか。そしてそこに染まれない者を排斥し、いじめ、心からその価値観に染まるか自殺するまで追い込む。そしてそれは暗黙の「正義」となっており、立派な人物の特徴とまで考えられるに至っている。しかしよく考えてみればその価値観に大して意味はなく、その価値観を信仰する者が多いからこそそうすることに意味が生まれてくるに過ぎない。隠れたファシズム、全体主義。正にこれは日本人こそ読むべき本であるかも知れない。

村上春樹が最近『1Q84』なる長編を出したが、私は『1984』が何となく剽窃されたような気がして、そのタイトルを見たときに少々苛々した。しかし何か関係があるのかも知れないので、買って読んでしまった(思うつぼ)。すると中にはこういう趣旨のことが書いてあった。

今はビッグブラザーの時代ではない。ビッグブラザーはもういない。なぜなら誰かが人民を統制しようとすると、「見ろ!あいつはビッグブラザーだ」と言われてしまうからだ。ビッグブラザーはもう表れない。これからはリトルピープルの時代だ。

しかし「ビッグブラザーは悪者である」という価値観さえ疑われる世の中で「見ろ!あいつはビッグブラザーだ!」と言われたくらいで、ビッグブラザーはいなくならない。そういう表面的な勢力争いの話ではないのである。指導者を疑うことすら既に仕組まれた思想統制の一つなのかも知れないのだ。『1984』に書いてあるのはそういうことなのだ。

組織、集団、国家などに身を置いている以上、この摂理を免れることは不可能だろう。